ルイ・ビュベロ

ルイ・ビュベロ
Louis Buvelot
誕生日 1814年3月3日
出生地 スイス,モルジュ
死没年 1888年5月30日
死没地 オーストラリア,メルボルン
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ルイ・ビュベロ(Abraham-Louis Buvelot、1814年3月3日 - 1888年5月30日)はスイス生まれの画家である。ブラジルオーストラリアで働いた。

略歴

スイス、ヴォー州モルジュで郵便局職員の息子に生まれた。ローザンヌで働いた後、パリに出て風景画家のカミーユ・フレール(Camille Flers)に学んだ。1835年にブラジルのバイーア州に移住し、叔父の所有するコーヒー農園で働いた。バイーア州のサルヴァドールで絵を教えるようになり、1840年に当時、ブラジルの首都であったリオデジャネイロに移り、ブラジル皇帝ペドロ2世の皇后、テレサの注文で風景画を描き、勲章を受けた。

同じ頃、リオデジャネイロにいたフランス生まれの画家、ルイ=オーギュスト・モロー(Louis-Auguste Moreaux)とリオデジャネイロの風景や人々を描いた画集「O Rio de Janeiro Pitoresco」を1850年に出版した。写真家としても、1845年から1856年の間、工房、Officina Imperial Buvelot & Pratを経営して、ブラジル皇室の仕事をして、皇室の写真家の称号を得た。1852年と1856年に、スイスに戻りベルンの展覧会に作品を出展し、銀賞を受賞した。

1860年にスイスに帰国するが、健康のために気候のいいオーストラリアに移住することにして1865年2月に、メルボルンに移った。1年ほど写真家の仕事をした後、風景画を描くようになり、有力な顧客もできた。1869年にメルボルンのビクトリア国立美術館(ナショナル・ギャラリー)の管理者が2点の作品を買い上げた。1870年のフィラデルフィア万国博覧会に出展し入賞した。1873年と1880年、1884年にメルボルンで開かれた展覧会では金賞を受賞した。画家としてオーストラリアで名声を確立し、1888年に亡くなるまで、作品の製作を続けた。

戸外制作を行うビュベロのスタイルは、後にメルボルン近郊のハイデルバーグに集まった芸術家「ハイデルバーグ派」(Heidelberg School)の画家たちに影響を与えたとされる。「ハイデルバーグ派」の画家、アーサー・ストリートンは1866年に描かれたビュベロの風景画を「ヴィクトリア州の最初の優れた風景画」と評した[1]

作品

  • リオデジャネイロの風景(c.1845)
    リオデジャネイロの風景(c.1845)
  • リオデジャネイロの風景
    リオデジャネイロの風景
  • "Summer afternoon" (1866)
    "Summer afternoon" (1866)
  • "Falls on the Wannon, Australia"(1872)
    "Falls on the Wannon, Australia"(1872)
  • Near bacchusmarsh, sunset on the werribe(1876)
    Near bacchusmarsh, sunset on the werribe(1876)
  • Church of Santa Fede (1880)
    Church of Santa Fede (1880)

脚注

  1. ^ Streeton, Arthur (16 October 1934). Eaglemont in the Eighties: Beginnings of Art in Australia. The Argus.

参考文献

  • Buvelot, Abram-Louis (1814–1888) – Australian Dictionary of Biography
  • Itaú Cultural
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