イラク・セルジューク朝
イラク・セルジューク朝(イラク・セルジュークちょう、1118年 - 1194年3月)は、現在のイラクからイラン西部を支配した王朝で、中央アジアに覇を唱えた大セルジューク朝の地方政権である。
歴史
勃興
大セルジューク朝の第7代スルタンであるムハンマド・タパルが1118年に死去すると、大セルジューク朝のスルタン位は弟のアフマド・サンジャルが継ぎ、イラク領は長男のマフムード2世が継いだ。このムハンマドの子孫がイラクの支配権を継承したことがイラク・セルジューク朝の始まりである。
1119年、マフムード2世は叔父のアフマドの侵攻を受けて屈服、その支配下に置かれた[1]。1131年にマフムード2世が死去すると再度アフマドの介入を受け、トゥグリル2世が立てられるも1年余で死去した。その跡を継いだマスウードもアフマドの介入を受けて立てられ、イラクは実質的には大セルジューク朝の支配下にあった。
衰退・滅亡
このような内紛続きのために、イラクの政情・治安は全く安定せず、国内では1127年に従属下にあったザンギー朝が自立し、またマズヤド朝も勢力を拡大した[2]。さらにアッバース朝カリフも策動し、1152年にマスウードが死去すると弟のスライマーン・シャー、マフムード2世の息子のムハンマド2世とマリク・シャー3世らによる三つ巴の争いが開始された[3]。これに乗じてアッバース朝はイラク・セルジューク朝のスルタン領と宮殿の没収を宣言し、さらにはバグダードからシフナ職を追放するに至った[2]。1153年に宗主のアフマドが捕虜となり、1157年には死去して大セルジューク朝が断絶すると、イラクの政情はさらに混乱した。1160年3月までにマリク・シャー3世とムハンマド2世は相次いで死去し、叔父のスライマーン・シャーが即位して内紛は収束されたに見えたが、同年の10月にトゥグリル2世の遺児であるアルスラーン・シャーを擁したマムルークのイル・ドュグュズによって廃され、アルスラーン・シャーが跡を継いだ。
アルスラーンの下で「大アタベグ」の称号を得たイル・ドュグュズ(イル・ドュグュズ朝)は政権を握った[3]。1175年にイル・ドュグュズが、1176年にアルスラーンが相次いで没すると、前者は長男のジャハーン・パフラヴァーンが、後者は7歳の息子であるトゥグリル3世が継いだ。1186年にジャハーン・パフラヴァーンが死去すると弟のクズル・アルスラーンが跡を継いだが、彼はトゥグリル3世を傀儡にして露骨な干渉[4]を行なったため1191年に暗殺された[5]。
以後はスルタンの権力が戻されたが、1194年3月にトゥグリル3世はホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュとホラーサーンの支配権をめぐって争い、衆寡敵せず敗死してイラク・セルジューク朝は滅亡した[5]。
歴代スルタン
- マフムード2世(1118年 - 1131年)
- ダーウード(1131年 - 1132年)
- トゥグリル2世(1132年 - 1134年)
- マスウード(1134年 - 1152年)
- マリク・シャー3世(1152年 - 1153年)
- ムハンマド2世(1153年-1160年)
- スライマーン・シャー(1160年 - 1161年)
- アルスラーン・シャー(1161年 - 1176年)
- トゥグリル3世(1176年 - 1190年、復位1191年 - 1194年)
- クズル・アルスラーン(1190年 - 1191年)
系図
大セルジューク朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムハンマド・タパル 大セルジューク朝7代スルターン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マフムード2世1 | トゥグリル2世3 | マスウード4 | スライマーン・シャー7 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ダーウード2 | マリク・シャー3世5 | ムハンマド2世6 | アルスラーン・シャー8 | ムハンマド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マフムード | トゥグリル3世9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルプ・アルスラーン | 娘 | ジャラールッディーン・メングベルディー ホラズム・シャー朝8代スルターン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||